スロットマシン 
スロットマシンとは
ギャンブルが大衆化しスロットマシンは全世界に広がっています。ラスベガスのマッカラン空港では、空港のホールにスロットマシンがあり、ラスベガスやリホ、タホ湖の3つのギャンブル都市では現在、歩道にまでスロットマシンがある状態のようです。どこまでがカジノなのか分かりません。

格調高い一流カジノを誇る南仏コートタジュールのカジノも庶民的なスロットマシンを導入しなかったものは斜陽化し、カンヌのパームビーチカジノはスロットマシンの導入が遅れたのが原因で倒産したといわれています。

スロットマシンはアメリカ的なものですが、発明者はドイツ・バイエルンからの移民であるチャールズ・フレイという人物です。1905年にサンフランシスコで発明したそうです。最初のスロットマシンは「自由の鐘」と呼ばれ今でもリノの「自由の鐘」サロンに飾られているそうです。そして現在スロットマシンは1台で年間10000ドル以上を稼ぐ「金の卵」となりました。

使用するコインはアメリカなら5セント(ニッケル)・25セント(クォーター)・50セント(ハーフダラー)・1ドル硬貨かそれと同形のゲーム用コイン。最近は最低賭金25ドルや100ドルというような高額スロットマシンも登場しています。

ヨーロッパの場合は現金のケースは少なくほとんどがゲーム専用コインです。これをスロットに投入し昔ならレバーを引き、今ならボタンを押せばゲームが始まります。そして同じ種類の図柄が揃えば勝ちです。

アメリカのカジノのどれをみてもスロットマシンの数を宣伝文句にしています。マンダレイベイでは2400台以上、MGMグランドは3500台のスロットマシンといった具合に旅行ガイドなどでもスロットマシンの台数は記載されています。ちなみにフランスの一流カジノに最近認可され設置されたスロットマシンの数は300台前後です。それを考えるとアメリカの規模は巨大です。

スロットマシンの繁栄はスロットのロボット化やコンピューター化により加速されました。60年代までは長いレバーを引くことで図柄が回転する仕組みでした。「一本腕の山賊」とのニックネームも生まれます。しかし現在はボタン操作で回転します。

ほとんどのスロットマシンは1台1台コンピュータで結ばれていてプログレッシブスロットマシン(賞金累計増型マシン)と呼ばれます。他のスロットマシンとコンピュータで接続されているので、その中のどのスロットマシンで遊んでも取られたお金の一部がジャックポット用の資金プールに回され増えていく様子がカウンターに表示されています。オンラインカジノでもあります。このことからプログレッシブゲームはオンラインカジノの無料モードでは遊ぶことができません。

スロットマシンはフランスでは1988年に初めてフランス15大カジノの別室や待合室に登場し3年後に134のカジノに設置が認められました。登場から2年でフランスのギャンブル売り上げの42%を占めて、ルーレットの20%を上回りました。フランスのカジノはスロットマシンが登場するまでの15年間衰退していました。86年にはカジノ売り上げは前年比14%減という状況。すでにスロットマシンを導入していたモナコ(独立国なのでフランスとは別に数えます)は2つのカジノだけでフランスの134のカジノの売上高の3/4を上げていました。

スロットマシンの許可をを最初に得た15のカジノは売り上げの90%をスロットで上げるようになり、さらにフランス全土の売上高の63%を占めるまでになり、国家と地方自治体には莫大な税収をもたらしました。スロットマシンはフランスカジノ界の救世主となります。

カジノに入ったことのない客もカジノに来るようになり、これまでは入場料を払い、身分証明書を提示、スーツ姿でなければ入れなかった南仏のカジノは入場無料のスロットマシン部分を拡張し軽装のスロットマシン客を奪い合うようになります。有力カジノは「プリヴェ(貴族室)」は維持しながらスロットホールを拡大せざるを得なくなります。スロットマシンは競馬、宝くじに次ぐ第3のフランスギャンブルの地位を得ることになります。

スロットマシンはかつてのヨーロッパカジノの世界を変え豪華絢爛のカジノからスーパーマーケットと化したと嘆く人もいます。とはいえ、ヨーロッパの場合入場にはスーツ着用が必要なところもあるので事前に確認が必要です。アメリカならマクドナルドにでも入る感覚でカジノに入っていけます。